「生きているうちに私の経験を、伝えなければいけない」。最近になって、自らの経験を語り始めた森田富美子さん(93)。戦後77年の夏、その思いを改めて聞いた。 そう取材に語る森田さんは1929年6月、長崎市の大浦町に生まれた。 父は祖父の代から会社を経営。三菱工業長崎造船所の下請けで、家は裕福だった。祖父の家に預けられていた期間も長く、寵愛を受けて育った。「わがままでした」と、はにかみながら振り返る。 小さい頃の思い出といえば、祖父がタンクを動かす現場で何やら指揮をしていたこと。そして、おばに映画に連れて行ってもらったことだ。当時流行りの『愛染かつら』を見たことを、覚えている。 なぜか、なりゆきでデートに付き添うことになり、喫茶店『ツル茶ん』でおばとともに男性と向き合ったのは、いまでも笑い種だ。 祖父が亡くなった小学校中学年のころから、両親と妹、弟たちとともに暮らし始めると、割烹を買い取り改築した市中心部の家に引っ越した。日本庭園が整備され、2つの池には鯉も泳いでいるような立派な家で、庭師やお手伝いさんもいた。 「弟たちは庭でキャッチボールをしていて、私がキャッチャー役をしたこともありました。母はワンピースや小物をつくってくれて、きれいに着せてもらっていました」。そんな幼い頃は、まだ平和な時代だったように思う。 「大東亜戦争が始まる前は、戦争をそんなに感じることはありませんでした。提灯行列で大人たちが喜んで旗を振っている様子は覚えていますけれど、それがどういうことなのかはあまり理解できていなかったのかもしれません。小学校6年生ごろになると、ようやくその意味がだんだんわかってきましたね」

戦争に興奮していた大人たち

たとえば、映画館で本編の前に流れていたニュース映像では、戦争関連のものが増えていった。ハワイの真珠湾攻撃など、日本軍の勇姿を伝える内容のときは、大人たちがにわかに興奮していた。 町の中心部にあった家のすぐ近く、三菱造船所では、戦艦「武蔵」の造築もはじまっていた。街中からその様子が見えないよう、周りが塀などで目隠しされ、物々しい雰囲気だった。 「武蔵」に乗り組む兵曹3人と水兵2人が1ヶ月ほど、家に泊まりにきたこともある。兵曹はいまでも名前を覚えているくらいで、彼らが街に出かけるとき、雨が降っていたからと傘を差して途中まで付き添ったことは、いまも忘れない。 縁側に座布団を3枚並べて、なにやら神妙な面持ちで父親と話し込む兵曹たち。居間で母親と人気歌手・灰田勝彦のレコード『きらめく星座』を聴きながら、歌う水兵たちの姿。そんな場面も、目に焼き付いている。 最後の日、玄関で見送りの際、敬礼しながら彼らは「お母さん、お世話になりました」と言った。彼らがどこへと向かうのか知ってか知らでか、母親は目を伏せ、顔を合わせようとはしなかった。

「もとの生活に戻りたい」

当初は学校の中庭でドッチボールや英語の授業を楽しむなどの学生生活を送っていたが、授業はだんだんと減っていた。 本土でも空襲がはじまり、市民にも徐々に不安が広がっていたころになると、森田さん一家は市の中心部から、郊外に引っ越すことになった。 引っ越し先は、駒場町という1940年にできたばかりの新興住宅地。中小の工場が密集し、「駒場グラウンド」と呼ばれていた三菱の陸上競技場があった街だ。空襲で狙われそうな三菱造船所からも離れていることから、「父は安全なところに移ろうと判断したのでは」という。 2階建の一軒家の敷地はやはり広く、庭では園芸が好きな母親が白とピンクの薔薇、そして茄子などを育てていた。玄関の脇には弟たちが相撲をとって遊ぶための、土俵もあった。 森田さんは新しい家の近くにあった学校工場に「報国隊」として動員され、働いて帰宅すると2階の勉強部屋へと戻る、という生活を送るようになった。 「勉強をしたり、ドッチボールをしたり。そんな元の生活に戻りたいということは、友達とも話していましたね。でも、当時はそこにいるので、精いっぱいでしたから……」 しばらくすると、働き先は市内から少し離れた香焼島へと変わった。電車と船を乗り継いで、川南工業の造船所へと通う毎日だった。

8月9日、その朝起きたこと

記録によると、その日は朝から快晴。風はなく、暑い夏の日だった。長崎市内には深夜に何度か空襲警報が発令され、大勢が寝不足の朝を迎えていた。 午前7時ごろだろうか。森田さんが工場へと向かおうと玄関に行くと、いつも履いているはずの下駄がない。どうやら、5年生だった上の弟が勝手に履いて、近くの川へ蟹取りに出かけていったらしい。 「本当に私、朝から機嫌が悪くなっちゃって。そしたら母が赤い鼻緒のついた新しい下駄をおろしてくれて、これを履きなさいって。いつどういうことがあるかわからないのだから、そんなに怒っていかないで、と送り出してくれたんですね。それでも私はぷんぷんでね。門を出て、少し歩いたところで立ち止まって振り向くと、母はまだ手を振りながら見送っていたんです」 森田さんが家を出たあとの午前7時50分、長崎市内には再び空襲警報が発令された。しかしこの警報は40分ほどで解除されている。 警戒警報は継続されたものの、多くの人々はいったん退避した防空壕などから出て、そのまま日常生活に戻っていた。それは、まだ家に残っていた森田さんの家族たちも、同じだった。 同じころ、アメリカ軍のB-29戦略爆撃機「ボックスカー」は福岡・小倉に狙いを定めて飛行していたが、視野が開けず第二目標の長崎に行き先を変更。雲に覆われていたためというが、前夜の八幡大空襲の煙が広がっていたとも言われている。 「ボックスカー」が長崎の上空にあらわれたのは、11時のことだ。この直前に日本軍が空襲警報を発令し、「長崎市民の全員退避」がラジオで流されたという証言などもあるが、市民への通達は間に合わなかった。 午前11時2分、原子爆弾「ファットマン」は市街地の上空約500mの地点で炸裂した。爆心地は、森田さん一家が引っ越した新居から、たった数百メートルのところだった。

崩れかけていたキノコ雲

長崎がやられた――。すぐに外が騒がしくなった。恐怖を感じながらも表に出て、高台に上がると、黒いキノコ雲が目に入った。それは不気味に、崩れかけていた。 その後、市内へと戻る船に乗った。ぎゅうぎゅう詰めだったが、誰一人として、言葉を発していなかったように思う。 船を降りて周りの人たちとともに一目散に駆け出したが、長崎駅の近くは燃えていて近づけないと知った。森田さんは防火水槽の水を3杯、頭からかぶって、山沿いに駅からさらに北方にある家の方向を目指すことにした。 「どんなふうに歩いたか、まったく記憶にないんです。友人2人と一緒だったのにも、あとになって気がついたくらい。けがや火傷を負っている人たちを何人も見ました。途中で乾パンを友人に渡しましたが、自分が食べたかは覚えていません。その日の夜は、身体が濡れていて寒くて眠れませんでした」 翌朝早くに起きて、再び家を目指した。爆心地に近づく道中は、さらに悲惨さを増していた。 身体の皮膚が丸ごと剥け、それを引きずりながら歩く男性。道端に重なる死体の山。「水を」という女性の声――。 「私、怖いとも思わなかったんです。少しおかしくなっていたのかな。本当に何も感じなかった。もう、自分のことでいっぱいでした。ようやく山を降りてほっとしたのですが、やっぱり、あたりは死体でいっぱいなんですね……」

「みんな死んだ、みんな死んだ」

振り返ってみると、顔が煤だらけになった少女が佇んでいた。報国隊で通っていた学校工場で一緒に働き、妹同然に可愛がっていた2つ下の女の子だった。 彼女は「鹿児島に帰りたい」と言った。森田さんは駅の方に行くことを勧めることしかできなかった。自分を含め、誰もが必死だったのだと思う。 ようやく辿り着いたグラウンドから家の方角を見ても、何もない。そこにあったはずの建物、すべてが瓦礫と化していた。 もしかしたらみんなで避難しているのではないかと、少し離れたところにある近所の防空壕、通称「横穴」へと向かった。 穴の中にいた家族は、妹だけだった。1週間ほど前にアメリカ軍機の機銃掃射を受けた妹は、恐怖のあまり壕から出ることができないままでいた。そのために、ひとり助かったのだった。 妹は森田さんに走り寄ってしがみつき、泣きじゃくりながら、こう繰り返した。 「みんな死んだ、みんな死んだ……」

それでも、涙は出なかった

近所の人によると、直前まで、3日前に広島に落ちた「新型爆弾」に警戒するよう呼びかけていたのだという。その口の中は、大量の瓦礫で塞がれていた。 家の中にいた母親は、1年生だった三男を抱き抱えるようにしてそのまま亡くなり、3年生の次男は茶の間に倒れていた。 森田さんの下駄を履いて遊びにいった長男の行方は、ついにわからないままだった。 「妹は被爆直後の家を見ていたから、もっと生々しい様子を見ていたんです。最初は父親が生きて立っていると思っていたくらいで、一番下の弟の顔も母にかばわれて、きれいだったって」 「私は、そのあとに火事で燃えてしまったあとの家を見ている。父は炭化し、母は生焼けになり、下の弟はかぼちゃほどの黒い塊に、両手で抱えられるくらいに小さくなってしまって……」 焼け落ちたトタンの上で父、母、ふたりの弟を寄り添わせ、荼毘に伏した。血のりと煤が混ざった両手は真っ黒だった。森田さんはそれを何度も、何度も擦り合わせた。自らのからだに、染み込ませるように。 「私にのこされたものはこれしかない。自分に残しておかないとだめだ。家族の血を忘れてはいけない。そう思ったんです」 夕方、日が沈むころには、4人はきれいなお骨になっていた。涙は、出なかった。 原爆が投下された当時、長崎の人口は24万人だったが、その年の暮れまでに、73884人が亡くなった。市内にあった建物の4割が全半壊か、全焼したともされている。一家全滅という家庭も少なくない。 森田さんが暮らしていた駒場町では、当時町内にいたうち即死を逃れたのは1人だけだった。建物はほとんどが破壊され、文字通り町ごと消失してしまった。 駒場町周辺はその後、隣の松山町に編入された。いまでは運動施設が広がり、かつてのような住宅街は存在しない。

重い口を開いた理由

「両親よりも思い出すのはおじとおばというくらい、本当に、一生懸命良くしてもらいました。涙が出ることもあったけれど、絶対に2人に見せることはしませんでしたね。私、戦災孤児と言われたことは一度もないんです。ずうっと、感謝しながら生きてきました」 その後、20代で結婚。4人の子どもに恵まれたが、自らの経験を家族にも語ることはなかった。重い口を開き始めたのは、最近になってからだ。 「とにかく、生きているうちに、自分の知っていること、思っていることを言っておかないといけない」。そんな思いから、Twitterやブログを通じて被爆体験や、自らの考えを伝えるようになった。 同時に、あの頃への思いも膨らんでいった。 たとえば、被爆後に家の近くで出会った鹿児島の少女。最近になって娘が調べると、少なくとも原爆投下の直後には亡くなっていなかったことがわかった。あの日、助けることができなかった自分を悔いていたが、心の重荷がひとつ、なくなったようにも感じた。 乗組員が家に泊まり込んでいた戦艦「武蔵」は1944年10月、フィリピン沖でアメリカ軍の攻撃を受け、沈んだ。 数年前に沈没した「武蔵」が見つかった様子がテレビで放映されていたとき、船のまわりを泳いでいる綺麗な魚が見えた。家にいた彼らのような気がして、静かに手を合わせた。

いまの私に、できること

しかし、決してそのように感じてはいないともいう。戦争は「憎しみ」から始まるとも思っているからだ。ハワイの真珠湾を訪れ、日本軍に攻撃された犠牲者に、祈りを捧げたこともある。 「とにかく私に言えることは、戦争も核もダメということ。戦争を仕掛けた側であれ、仕掛けられた側であれ、お互いどちらも、私たちと同じような目に遭う人が出てきてしまうんですから。戦争や核がどういうものかも何も知らずに語る政治家なんかには、言葉は悪いかもしれませんが『このバカたちは何を考えているのか』と言いたいですね」 「いまの私にできることは、知っていることを若い世代に伝えて、親や兄弟が突然こうやって失われたら、死んだら、どう思いますか?と問いかけるだけ。私に『どう感じたんですか?』と聞いてくる人には、少しでも自分に置き換えて、考えてもらいたいと伝えているんですよ」

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